2008年06月04日

冷えるという事

冷えるという事



 冷えると小便が近くなるのはどういう訳かと時々聞かれるからここにかいてみよう。
 まず人体と水分との関係であるが、人間は水分を口から飲用するばかりではなく、不断に空気中の水分を肺臓の呼吸によって吸収しているので、この量は予想外に多量に上るのである、何となれば呼吸は一分間三十回くらい、一時の休みもなく吸収しているからである。
 右に対し、水分中の必要分を吸収し不必要分を排泄する、それが尿である、ところが尿は下ばかりではない、皮膚からも出る、それが発汗である、ところが発汗は誰も知るごとく熱のためであるから、夏の暑い時に多量に出るのである、ゆえに寒い時は発汗が少量となるからその分だけ尿量を増す事になる、つまり尿も発汗も同じものであるから、臭気も似ている訳である。
 右の理は、湿性肋膜炎の場合よく判る、湿性肋膜は二枚の肺膜に間隙を生じ、それに尿が溜るのであるからこの病気の特性は盗汗(ねあせ)を非常にかく、これは右のごとく肋膜に溜った尿が汗となって出るからである。
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病気とは排毒作用

病気とは排毒作用



 そもそも、病気を最も判りやすくいえば病気とは体内にある不純物、すなわち有毒物を種々の形によって排泄さるるその過程をいうのである、従ってこの世の中に病気ほど結構なものはないので、もし人間から病気をなくすとすれば、人間は健康を保ち得ず、到底長命などは覚束(おぼつか)ない虚弱者となるのである、これが千古不滅の真理であって、これを基本として成った医学こそ真の医学である、ゆえに、もしこの真理に外れたいかなる医術といえども、それは真の医術とはいえない疑似医術であるから、到底病気は治し得ないのである。
 そうして有毒物とは、彼の喀痰、鼻汁、喀血、出血等の汚血や、膿汁、下痢便、濁尿、汗、唾液、目脂(めやに)、涙、耳ダレ、発疹、皮膚の紅潮、仝〔同〕斑点、田虫、水虫、フケ等々であって、まず喀痰、鼻汁、汗、濁尿等の排泄作用が感冒であり、下痢や痔出血等は全身毒素が腹部へ集り、肛門から排泄されるのである、また膿汁毒血等は腫物によって排泄され、各種の毒血は天然痘、麻疹(はしか)、猩紅熱(しょうこうねつ)、発疹チフス、疥癬等によって皮膚面から排泄され、その他は毒素はそれぞれ、種々の形によって排泄されるのであるから、病気とは換言すれば、人体の清掃作用である以上、清掃された結果は血液が清浄化するから、健康を増すのである、そのため血行の循環はよくなり、殺菌力は強化され、体力強靭となるから罹病し難くなり、精神的には爽快感の持主となり、楽天的となるのである、これに反し、常に寒冒に罹りやすく、絶えず不快で、根気なく怒りやすく、憂鬱で、神経衰弱や結核に罹りやすいのは、濁血が原因であるのは言うまでもない、そうしてあらゆる病気の中でも、最も簡単にして健康上効果顕著なのは感冒に越したものはないのである、従って、出来るだけ寒冒に罹るようにするのが最もよいのであるから、常に感冒に罹るよう心掛ければ、結核及び神経衰弱などに犯される事はないといってもいいのである。
 しかるに、この理を知らない医学は、およそ反対の解釈であるから、いかに誤っているかが判るのである、何よりも今日医学は進歩せりと言いながら実際的効果ははなはだ疑問である、むしろ進歩すればする程、真の医道と遠ざかるばかりである、見よ、今日寒冒の原因すら不明であり、結核の解決さえもいかに苦心努力しても思うようにならないというに見ても明らかである。
 右の理によって、今日至極簡単な病気でさえも容易に治らないのは逆療法によるからである、事実、吾らからいえば、病気なるものは、まことに容易に治るものである、それは神が与えた清掃作用である以上、不純物がある程度溜れば人間自身が持っている良能力の活動が発生し治るからであってみれば、ほとんどの病気は、何らの手当もせず自然に放任しておくだけで速かに治癒するのである。
 ところが、いつの時代か判らないが、前述のごとく、病気を逆の意味に解し成った医学である以上、いか程進歩したとても治るはずがない、それどころか反って苦痛は増し、生命にまで危険を及ぼすのであるから実に恐るべきものとし、適当の手段を行わなければ安心出来ないという訳で、誤りを解決するのに誤りをもって発達したのが今日の医学である、とすれば、何と恐るべき愚法を続けて来たかと言えるのである、しかも、これがため何百何千年間人類はいかに大なる犠牲を払って来たであろう、それらを考える時全く聖書にある禁断の果実とは医薬をいったのではないかとさえ怪しまれるのである。
 しかしながら喜ぶべし、いよいよ天の時至って、この誤謬の真相を開明し、病なき世界を出現させようとするのであるから、近き将来すべて人間の寿齢は百歳以上は可能となり、且つ無毒者が殖えるに従って、病なく貧なく争を好まない人間が増える訳で、吾らのモットーである地上天国の実現は近づきつつありと確言するのである。
 もちろん、かくのごとき空前の大救業は神の大愛の発露と時期到来にある事はもちろんで、その最も基本的条件は、人間から病を除去する一事で、そのための主要なる点は、医学の是正でなくてはならないと共に、ここに始めて一切の誤謬は解決し地上天国は成立するのである。
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病気とは何ぞや・アメリカを救う

病気とは何ぞや・アメリカを救う



アメリカを救う

 私は標題の著書を目下執筆中であるが、左の一文はその中の一項目で、参考になると思うから、載せる事にした。

病気とは何ぞや

 序論にもある通り、現在米国における病気の漸増は何がためであるかを、その根本から説いてみるが、まず病気なるものの発生原因であるが、驚くなかれ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤がその中心をなしているという事実である。つまり病気を治し、病人を減らそうとするその方法が、反対に病気を治さないようにし増やしているという、到底信じられない程の迷盲である。そうしてこれは説明の要のない程明らかであるにかかわらず、それに気が付かないのであるから、全く二十世紀の謎といってもよかろう。それどころか益々医学に信頼し、これを進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じているのである。ではそのような不可解な原因はどこにあるかというと、それは医学の考え方が逆になっており、病気をもって悪い意味に解釈しているからである。それをこれから徹底的に解説してみよう。
 本来人間なるものは、生まれながらにして例外なく先天性毒素と後天性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえ出来れば病気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。ゆえにもし薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならないはずであるのに、逆に益々増えるのはどうした訳か、これ程理屈に合わない話はあるまい。元来薬というものは、地球上ただの一つもないのであって、ことごとく毒物であり毒だから効くのである。それはどういう意味かというと薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。
 では薬がなぜ毒物であるかというと、そもそも人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。すなわち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分るはずである。この意味において生きんがために食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、ちょうど生殖と同様子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。
 右のごとく人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上含まれている栄養分だけは吸収されるが、他は体内に残ってしまう。これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。その集溜個所としては神経を使うところに限られている。神経を使うところといえば、もちろん上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。いかなる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであって、ある程度に達するや自然排泄作用すなわち浄化作用が発生する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名付けて感冒というのである。
 ゆえに感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し治るという実に結構なものであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理であるから、大いに感謝すべきであるにかかわらず、それを知らない人間は、この浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、これを止めるべく考え出したものが医療であるから、いかに間違っているかが分るであろう。そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればある程発り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして、少しずつ服ませる。このため一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。
 このように薬毒をもって溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間がいかに有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などとやかましく言ったり、感冒を恐れるのもそのためである。また人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死のためで、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。右のごとく医療とは病を治すものではなく一時的苦痛緩和手段で、そのための絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々すべての療法は固め手段ならざるはないのである。その中に一、二異(ちが)うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので、楽にはなるが時間が経てば元通りになるから何にもならないし、またラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。
 以上のごとく現在までの療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみて明らかである。しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く悪化するのは当然である。その結果ついに生命の危険にまで及ぶのである。それについてこういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞くところである。また衛生に注意する者程弱く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞くところである。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、自分は病気した事がないから、医師や薬の厄介になった事はないなどというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。
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病気が治ればいい

病気が治ればいい



 今日インテリ階級の人々がよくいう事には、宗教の病気治しは間違っている。宗教は精神的救いであり、病気は医者が治すものに決っている。だから宗教の病気治しは科学の領域を侵し、面白くないというのである。ちょっと聞くと至極もっともらしく思えるが、よく考えてみるとどうも感心出来ない点がある。というのは宗教が科学の領域を侵さなければ万人を救う事が出来ない程医療では病気が治らないからでこれも止むを得ないのである。それ程現代医学は無力である事を考えて貰いたいのである。そうかといって既成宗教も同様治病の力はほとんどない。その証拠には現在本教を除いた各宗教は、例外なく病院を経営しているにみて明らかである。というのはせめて精神的慰安なりと与えてやろうとしているのが今日の宗教のあり方であって、その観念が宗教本来のもののようになってしまったので、たまたま本教のごとく治病主義の宗教を見ると、何か間違っているように思えるのである。以上のごとく医学と宗教とを別々のものとして考えるところに誤謬があるので、要は病気がよく治ればどちらでもいいではないか。この事実に眼を覆うて何だかんだという人達こそ、小乗観念に捉われ文化の進歩を阻む訳である。
 由来(もとより)宗教の真の目的は、不幸を救い幸福を与える事であって、それ以外の何物でもない。それには何といっても精神ばかりでは駄目で、肉体も共に救い、霊肉共に健全になってこそ真の救いである。ところが今日までそういう力ある宗教が出なかったため、止むを得ず二次的手段として病苦はそのままにしておいて、精神だけを救おうとしたのである。その方法が生の執着から離脱させ、諦めを諭(おし)え、悟りを開かせようとしたのであって、それが宗教の本来としていたのであるから、全く霊の方だけで半分の救いでしかなかったのである。ところが本教のやり方は全然異(ちが)う。肉体も共に救うので、それには病気治しが第一である。そうして本教の治病効果たるや、医学とは比較にならない程素晴しいものであって、健康を取戻し文字通り安心立命を得て、歓喜の生活者となるのである。という訳で本教を目して病気治し専門と言うが、私はそれでこそ真の救いであると満足している。言うまでもなく健康にさえなれば、あらゆる不幸の原因は滅消するからである。従って宗教として他の事はいかに完備しても、肝腎な病気の解決が出来ないとしたら、宗教としての資格はないと思うのである。よく宗教によってはその信者が病気で苦しみながら、自分は救われたといって満足している話を聞くが、これなどはむしろ悲哀である。なるほど御当人はそれでいいとしても、家族や近親者の精神的経済的の苦悩は並々ならぬものがあり、この有様を朝な夕な見せつけられる病人も、決して心からの満足は得られるはずはない。としたらヤハリ本当に救われたのではない訳である。
 ここで右についての根本的意味をかいてみるが、一体人間というものは科学が造ったものか、それとも神が造ったものかを、よく考えてみて貰いたい。もちろん科学者といえども科学が造ったとは思うまいし、神が造ったものに異論はないであろう。とすれば科学で造られたものなら、破損の場合科学で治せようが、神が造ったとしたら修繕は神に依頼するより外に方法がないのは分り切った話である。それがなぜ今まで分らなかったかというと、これも簡単に説明出来る。すなわち科学は眼に見えるが、神は目に見えないからというだけの話で、頗(すこぶ)る浅い見方である。という訳で科学で治らない病気が、宗教で治る理屈が彼らには信じられないのである。ところが吾々の方は反対で、もし科学で病気が治るとしたら、それこそ大奇蹟であり、宗教で治るとしたら当然で、何ら不思議はない。これを一層分り易く言えば、もし医学で病気が治るものなら、医師の家族に限って普通人より健康であり、医師自身もズバ抜けて長生きでなくてはならないはずである。ところが事実は一般人といささかも変りのないのはどういう訳かを訊(き)きたいものである。また薬で病気が治るものなら、先祖代々人間の体内にはどのくらい入っているか分らないばかりか、今日のごとく新薬に次ぐ新薬が出来、飲む外に注射までして入れる以上、病人はなくなり、医師も薬屋も飯が食えなくなり、廃業してしまったはずである。ところが事実はどうであろう。益々病人は増え、無医村が沢山あるといって零(こぼ)し、病院は満員、療養所はベッドが足りない、新聞の広告欄は薬が一番多いという皮肉な事実を見たら一言もあるまい。従って私の説のごとく薬が病気を作るというのは事実が証明している。
 以上医学と宗教に関して論じてみたが、問題は医療で治ればいいので、そうなればこんな問題は起りようはずがないのである。
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人を裁く勿れ

人を裁く勿れ



 この事については、信者の中にも知らず識らず間違える人がよくあるからかいてみるが、これも以前私はかいたように思うが、今でも時々耳にするので再びかくのである。よくアノ人は善いとか悪いとかの批判をしたり、酷いのになると、アノ人には邪神が憑いているから、気をつけろなどと言う人があるが、これこそ大変な間違いであって、人を邪神という人こそ、実は御自分に邪神が憑いているのである。なぜなれば人間が人間に対して、善悪正邪など分かるものではない。というのはこれこそ神様の領分に属するからである。だからそういう人は人間の分際で神様の地位を侵しているようなものだから、とんでもない慢心脱線である。
 従ってこういう人こそ、邪神と見て間違いはないので、大いに注意すべきである。もちろんそういう人は本当に神様を信じていないからで、よくあの人の信仰は間違っているとか、アノ教会やり方は悪いから改革せねばならぬなどと、真面目臭って言うが、もし信者の中で本当に悪い人があるとすれば、神様はチャンと裁いて下さるから神様におまかせしていればいいので、少しも人間の心配など要らないのである。それが信じられないとしたら、その人こそ神様よりも人間の力の方を信ずるのだから、これほどの慢心取違いはあるまい。というように我メシヤ教は最高の神様が、一切統轄(とうかつ)なされているので、間違った人に対しては、神様は最初その人を覚らせるべくお気づけをされるが、それで覚らない時は命まで召上げられる事がよくある。今までにもそういう例のあった事は、古い信者はよく知っているであろう。
 従って人を裁くなかれという格言をよく守ると共に、むしろ絶えず自分自身を裁いていればいいので、そういう人こそ本当に神様が分かっている人である。
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人は健康の器

人は健康の器



 昔から、よく人は病の器というが、これほど間違った話はない。人は健康の器というのが本当である。それならばなぜそういう事を言われたかというと、これにはもちろん訳がある、と言うのは、人間は実に病気に罹りやすい。ヤレ風邪を引いたとか、頭痛がする。腹が痛い。咳が出る。腹が下る。なぜかしら痛い。寒気がする。胸が悪いとか、その他種々な苦痛が発(おこ)る。すると驚いて、ヤレ医者だ、ソレ薬だと言って大騒ぎをする。しかし簡単に治る場合もあるが、ちょっとした風邪くらいに思っていると、仲々治らない。その内脳炎とか、チフスとか肺炎などという重い病気になったりする。それもうまく治ればいいが、下手をすると命に関わるような事になる、というのは、最初からお医者様には見当がつかない。だろう的である。それは確実な診断を下す程に、医学はまだ進歩していないからである。しかしこれらは急性の病気だが、慢性病や特に結核などになるとグズグズしていて仲々治らない。治るかと思うとまた悪くなるというように繰返すので、どうしても長くかかる。それでも治ればいいが、大抵は散々金を使って、苦しんだ揚句あの世行きというのだからやり切れない。それまでにお医者さんと薬と親類のようになってしまって、縁を切る事など仲々出来なくなる。ところが病気の苦しみばかりではない、仕事を休むから経済的打撃も大きい。サラリーマンなどは長年月休むので馘(くび)になり、収入も途絶えるという訳で、二重三重の苦しみとなる。何しろ近来医者や薬の治療代も高価で、仲々馬鹿にはならない。長引いたり、入院でもするようになると一財産くらい飛んでしまうし、また運が悪いと命まで、フイになるのだから大変である。
 このような訳であるから、現代人の病気を恐れる事は実にはなはだしい。そこで官民共に病気解決に関する予防や施設などに巨額の金を使う事は大変なもので、今次政府が計画している結核対策の費用でさえ、最近決った額は八十七億円というのだから、何と驚くではないか、しかもそれ程、巨額の費用を使い、官民共に大童(おおわらわ)になっているがサッパリ結核は減りそうもない。理屈から言えば減らなければならないはずだが、事実はそういかないと共に、全般的病気もそうである。ヤレ、チフス、赤痢、日本脳炎等々、近頃の世の中を見るがいい。どこもかしこも病人の氾濫はもとより、病院は満員で、収容しきれないそうである。薬も足りないので如何様(イカサマ)薬や、贋物が横行し、当局も弱っている事など新聞によく出ている。こんなにまでしても病気は一向に減らないので、誰も彼も今日の人間は、病気恐怖症に罹っている。従って人は病の器などというのももっとも千万である。
 ところが、一度本教の信者となるや、病気は簡単に治り健康は益々よくなるから病気の心配がなくなるどころか、伝染病など問題にならない。なぜなれば、伝染病程雑作なく治るものはないからである。だから黴菌なども恐ろしいとも何共思わないという事だけでも、実に現代の奇蹟であり、その幸福たるや世界中恐らく類があるまい、しかもそればかりではない、人の病気まで治せる術を授かる事である。実によく治る。信じられない程である。ところがこれを聞いた第三者はいうのである。何十年も掛って学校を出たり、色々の実験を重ねたりして、一生懸命修業して来た専門家に治らないものが、素人の癖に三月や半歳修業したくらいで、お医者の見離した病気が治るなんて、そんな馬鹿な事があるものか、そんな理屈に合わない話をするなんて、頭がどうかしている。全くインチキ宗教に騙されているんだから可哀想なものだ。迷信邪教程恐ろしいものはない。もし本当にそうだとすれば、医者も薬も要らなくなるじゃないかという。この言葉は紋切型となっていて吾々の耳にはタコが出来る程聞かされている。なるほどそれももっとも千万で、決して間違っているとは思わない。そこでちょっと考えてみて貰いたい事はお説の通りだとすれば、年々病気が減って、ヤレ伝染病の予防だ、注射をしろ一々消毒もしろ、黴菌に注意せよ、外から帰ったら手を洗え、含嗽(うがい)をしろなどと面倒臭い事は、段々言う必要がなくならなくてはならない。また医学衛生が本当に立派なものとすれば、国民の健康は年々良くなり、病院に蜘蛛の巣が張るようにならなければならないはずである。ところが事実はその逆であるのは一体どうした事か、また真の健康体となれば、大抵の黴菌は身体へ侵入しても発病しないはずである。なぜなれば黴菌が侵入しても、発病する人としない人があるに見ても明らかである。すなわち発病しないのは真の健康体で、低抗力が強いからである。だからそういう低抗力の強い人が段々殖え、消毒の手数も年々減るようになるのが、真の医学衛生の進歩でなくて何であろう。ところが不思議な事にはこんな判り切った理屈に、誰も気が付かない事である。実に割り切れない話ではないか。しかしその原因は吾々にはよく判っているが、それを詳しく話す事が出来ないのはまことに遺憾である。何よりも吾らの説通り実行すれば、誰でも健康者となり、病人は段々減る事は太鼓判をおしても間違いない。そんな立派なものならなぜ早く世の中へ知らせないかという疑問が起るであろうから、それを左にかいてみよう。
 今日の社会制度は近代文化が基本となって形成されたものであって、さきに説いたごとく、近代文化は根本が唯物主義の建前である以上偏重的で、唯心文化に対する反動的とも言えよう。この文化を無上のものと心得、あらゆる機構を作ったのであるから、それに欠陥のあるのは当然で、吾々のいう中正文化との喰違いもある訳である。そうして何より間違っている事は、この唯物文化は結果というものを余り見ないで、方法のみを重くみる。これが最も不可解な点である。この事を知って近代文化を検討すると実によく判る。
 その点、一時的結果で物を決めようとする短見的考え方である。先を見ずしてホンの目先だけで決める。例えば熱が出ると氷で冷す、ところが熱が出るという事はどこかに出るべき原因があるからで、それに気が付かない。気が付いてもどうしようもないのかも知れないが、ほとんど末端のみを対象とする。よく医学を対症療法というが、全くその通りである。また不幸な人を救うため、社会事業に一生懸命になっており、鳥の羽根募金や何やかやで金を集めているが、これも結構には違いないが、実はその方法たるや根本を逸している。不幸な人が出るという事は、出るべくどこかに社会的欠陥があるからである。従って、その欠陥を無くしさえすればいいのである。それより以外根本的解決の方法はないが、現代人はそれにも気が付かない、これも対症療法と同様末梢的方法でしかない。
 右は、ただ一つだけの例であるが、今の文化はあらゆる点がそのようになっている。何よりも文化が進歩したと言いながら、到るところ不幸が充ち満ちている。それらの原因である内面的欠陥、それを吾々は神様から、徹底的に知らされたのである。神様は一日も早く、一人でも多くの人に知らせ、目を醒まさせ、本当に幸福になる社会を作れという御思召である。そうして病人のない貧乏人もない、戦争などもない理想の世界を目的として進めと言われるのである。何と有難いではあるまいが。それでは今までなぜもっと早く、神様ともあろうものが、それを知らせなかったかと言うだろうが、それには色々の深い訳がある。それは本教の信者になれば、段々判ってくるのである。
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